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2012年11月28日水曜日

メデイアって何だろう?

http://matome.naver.jp/odai/2135401557625203401?fb_action_ids=3509475795829&fb_action_types=og.likes&fb_source=other_multiline&action_object_map=%7B%223509475795829%22%3A539203092774749%7D&action_type_map=%7B%223509475795829%22%3A%22og.likes%22%7D&action_ref_map=%5B%5D

私は倉山満先生に長く指導を賜っておりました。

仙台で倉山先生の復興構想を聞いたとき、これだ!と思った訳ですが、どうもメディアはそれをさせたくないようです。

経団連会長も

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121126-00000582-san-bus_all&1353921268

そもそも円高放置をずいぶん非難していた気が…

禁じ手というか、中国、アメリカ、その他諸外国で行われている気が。

普通であれば、偉い人や著名な人が言っているのだから、これが正しいの「だろう」となるのですが、だがちょっと待ってほしい。

このままデフレを放置し続ければ国内の中小企業にとってのダメージは取り返しのつかないものになります。多くの中小企業は国内での需要で経営している訳で、今は少ないパイの取り合い状態。また、消費税が増税されればさらに消費は冷え込み、貨幣は流動せず、企業の息は止まってしまいます。コストカットの美名のもと、ものづくりに従事する労働者は減らされ、今やその波はサービス業にまで来ております。もちろん技術の進化という側面はありますが、その根本にあるのは国内の経済が凍り付いて動かないという点にあります。

ここでパイを増やすのに、何をためらうことがあるのか。

被災地の今を見るに、増税をすれば間違いなく被災地は終わります。

また、大規模な財的支援がなければこれも間違いなく終わります。

被災地での会合や青年会議所に出てみると、それはそれは皆さん頑張って復興に邁進しています。

これから社屋、家屋を建てる方、設備に再投資しなければならない方、ここに需要があります。

リフレでお金を刷ったところで消費に消えることはここでは確約されているわけです。

メディアはやれ復興だ、支援だと流しますが、肝心なところで世論誘導をはかる。これは何なんでしょうか。

あらためてメディアの本質を見た気がします。

2012年11月21日水曜日

石巻青年会議所公開例会/OB例会

すっかり写真を取り忘れているあべとしきです。

公開例会は石巻グランドホテルにて。

六華亭遊花さんの公演をメインに、東北から多くの芸人が来てくださり、お客様もたくさん来てくださいました。

落語などはあまり聞いたことがない私でしたが、東北弁をまじえた芸は非常に面白く、方言をもっとつかうべよ!というのはまったく同感であります。

特に会議所メンバーも久しぶりに外で笑ったのではないでしょうか、何かと緊張を強いられる毎日かと思いますが、ほっとしたひとときを味わえて、あらためて明日への活力を蓄えられたと思います。ありがとうございました。

2次例会では硫黄島事業について簡単に報告させていただきました。

急なフリでしたので文脈がまとまってなくて申し訳ない思いです、卒業例会で時間をいただけるようなので、それまできちんとまとめなければ!

20日はOB例会。

ゲスト:TBSビジョン 元エグゼクティブ・プロデューサー 本間修二 氏

テーマ:「甦れふるさと石巻―知られざる歴史を今こそ掘り起こす―」

一般参加の方が多く、異例(笑)のOB例会となりました。

お話は非常に面白く、金華山を中心にした歴史を年表から紐解き、霊山や弁財天をからめて石巻の歴史を蝦夷から解説するというびっくりした内容でした。

石巻に育った私ですが、実際のところ鋳銭場として発達する前の石巻はぼんやりとしか想像できません。

昔塩田もあったようですが、資料のある文化センターは現在閲覧かなわず、なんとなーく港町だったんだろうなあという認識でした。

しかしそうではなく、風水や地政学面からさまざまな謎が、石巻市にあるというのです。

以前、「なんでも鑑定団」をぼんやり見ていた際、金華山号という明治天皇の御料馬の話題が出ておりました。

番組中ではその出自までは言及されてなかったので、金華山で生まれた馬なのかなあと思っておりましたら、鬼首の馬とのこと。

ここに謎があり、どうして金華山と名前をつけたのか。

奥州藤原氏が石巻の神社群を建設した訳とか。

かつてあった弁財天像とその系譜とか。

などなど。

時間が足りず、特に蝦夷との兼ね合いについてよく伺いたかったのですが、途中での幕となりました。

ぜひ次の機会を待ちたいと思います。

故郷にこういった歴史があるというのはうれしいものです。

特に共感した部分は「今物語が求められている、石巻の歴史を物語り、歴史と文化の再興をすることが町興し、復興へとつながる」という最初に本間氏が語った言葉です。

数年前からサブカル市場では、ある種の物語切れが起きているのではないかなと感じておりました。ハリウッドが日本のライトノベルを原作に買い付けたり、漫画原作のドラマが増えたりする要因には、既存の焼き増しの物語が増え過ぎ、物語が「語られるもの」から「消耗品」と化した点にあるのではないかと思います。

そうしたとき、石巻から語るべき何者かがあるとすれば、それは歴史と文化に根付いたものでなければなりません。

そのヒントを得られたような気がしてなりません。

充実した二日間をありがとうございました。

2012年11月18日日曜日

自分の系統

以前、仙台である方が、阿部の名前は安部と親戚だ、というようなお話をしておられ、感心しながら聞いていた次第です。

石巻には石を投げれば阿部にあたるほど阿部に多く、これだけ数がいると自分のルーツだとかにあまり関心が持てなかったわけで、仙台でのお話は「そんなお話もあるのかねえ」とうらやましく聞いておりました。

祖父の死から親戚付き合いが密にしようと思い、あれやこれやと話を聞いておりましたら、本家でも仙台でのお話と同じ、阿部のルーツを聞かされてびっくりしました。

いわく、

・八代孝元天皇に通じ、大彦命を父に兄が阿倍、弟が高橋になったらしいこと

・もともとは阿部水軍で強い山賊であったこと、九州の出であること

・阿も安ももともとは阿部であり、料理番であり侍であったこと

・秋葉神社にその痕跡が見られること

安倍頼時安倍貞任がルーツである

などなど、親戚でここまで郷土史に詳しい人間がいたことにまず驚き、感動です。

素人調査なのでどこまでが本当かは謎ですが、仙台でのお話にも合致する部分が多く、Web情報にも合致します。

石巻は天皇ゆかりと思われる地名も多く、意外と面白い土地なのかもしれません。

ある宮司さんから聞いたお話で、歴史ミステリー小説の題材にもなったとかならないとか。

郷土史というとどうしても記録が比較的ある江戸期以降、というお話しになり、石巻は鋳銭場からスタートしてしまいますが、古い部分を紐解けば面白い話がまだまだ眠っているかもしれません。

そういう町興しもひとつかな、なんて。

2012年11月13日火曜日

東松島市はスピードがはやい

農家の方とお話していると、やはり放射能の心配をされる方が多くいらっしゃいます。

私は東日本大震災からの放射能については大丈夫、原発は長い長いスパンで廃止にし、経済に影響が出ない形で次のエネルギーに移行するを良しとしておりますと明確にした上で。

放射能についての議論は多数ありますが、決定的に忘れられている点が生産者の気持ちです。

少しでも、法的に悪と定義されているものが入っているものを出荷していいのだろうか?

そういう矜持を持って仕事されている生産者は決して少なくありません。特に宮城、茨城あたりは放射能被害という名の言葉ばかりが先行し、実際それどうなんですか?という部分はどこにもデータがありません。上から定められた数字だけが一人歩きし、振り回される生産者をみると大変気の毒でなりません。

先日、め組JAPANの方とお話しした際、私から問いかけた言葉があります。

「被災地の復興とは何だと思いますか? ゴールはどこだと思いますか?」

「自立だと考えています」これが答えで、私も非常に共感しました。

当初、大きな力になったボランティアですが、今も残るボランティアの中にはさまざまな思惑があるようでなりません。

そんな中、アプローチは違えども同じ目標を持って共感できる方がいることは大変うれしいことです。

その自立に際し、最も必要なものは産業です。

向こう5年、10年は観光化した土地柄でやっていけるでしょうが、その先を見たとき、私たちが持つ地場のちからが無ければ自立できません。

そうした先を見据えれば、今、疲弊する生産者に何をするべきか、何をしてあげるべきかを考えなければいけないんじゃないかなあと思います。

そしてひとつ、重要なことは先の震災対応に関する総括が全くできていないこと。

国レベルでも市レベルでもそうですが、感想文ではなく次の有事にどうすべきなのかを改善しておかなければいけません。

先の宮城北部地震で被害のあった東松島市は非常に対応がはやく、がれき処理単価も石巻と比べ非常に安く(ここは行政レベルで異論が出ておりますが)、そして本日、被災した商店街で商品券販売を開始しました。かつて麻生政権の際に行われた定額給付金、エコポイントなどは政権が変わった後に経済にプラスの影響を与えたことを考えれば、経済を流動的に動すポイント制度や商品券は積極的に活用すべきです。

同じように後々に経済が動くでしょう、しかし、未来を引き寄せる力が政治にあると思います。ぜひ、生産者=産業のため、未来のための政治に期待します。

2012年11月3日土曜日

第37回歴史講演会「近代日本を興した礎 明治天皇」に参加して参りました

仙台ビジョンの会様の歴史講演会は、毎回内容が濃く政治に関わりを持つ身としては為になるお話ばかりで楽しみにしております。

講師は日本政策研究センター主任 岡田幹彦先生です。

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明治天皇の政を歴史軸に沿ってお話されました。

日露戦争の英雄豪傑たちの重用や、歌聖としてもちろん。

特に教育勅語については、戦後に要らぬ曲解を受けましたが英訳で本にまでなった素晴らしい文章です。

先日、ある宮司様とお話していた際、ある閣僚経験者が教育勅語の成り立ちについて、

「日本はユダヤ経典や聖書のような基軸がない為、教育勅語が出された」という内容の発言があったそうです。

事実は、明治天皇が各学校をまわった際、極端な欧米化が日本古来の道徳の腐敗を招いていることを知り憂慮され、結果、教育勅語が生まれたのが事実です。

先日の硫黄島でも少し触れましたが、教育勅語が自決や玉砕の元になった論が未だにありますが、そんな内容ではありません。

12の徳目

親に孝養をつくそう(孝行)

兄弟・姉妹は仲良くしよう(友愛)

夫婦はいつも仲むつまじくしよう(夫婦の和)

友だちはお互いに信じあって付き合おう(朋友の信)

自分の言動をつつしもう(謙遜)

広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)

勉学に励み職業を身につけよう(修業習学)

知識を養い才能を伸ばそう(知能啓発)

人格の向上につとめよう(徳器成就)

広く世の人々や社会のためになる仕事に励もう(公益世務)

法律や規則を守り社会の秩序に従おう(遵法)

国難に際しては国のため力を尽くそう、それが国運を永らえる途(義勇)

Wikipediaからそのまま引用します。

この内容は当たり前のことです。しかし、これを遠ざけてしまった戦後の一時期以降、我が国の道徳はどこか安定しない、曖昧なものになってしまいました。

道徳の根幹にある「勇気」の部分が「暴力」と同一視されている点。これは大東亜戦争の敗戦以後、暴力に対する潔癖症が推し進んだ結果、自衛すらままならない国家観によく現れています。この問題はいわゆるいじめ問題(暴力事件)に顕著に出ていると私は考えます。私もいじめ被経験者ですが、最後は自衛することでいじめは終わりました。

力には、必ず力で抗せよとは言いません、しかしそれを実行する勇気を持つことは、自衛の根幹であります。

今はとにかく暴力はいけない、話しあおうという極端な状態にあります。子供らのためにも、怒るときは怒る、屈しない、抵抗する、そういう見本をつくることも、大人が社会で出来るいじめ対策かと思います。今はとにかく外交分野が情けなく、子供もシニカルにそこを見ているように思えてなりません。

そして、共通した美徳がない点も、いじめ問題に拍車をかけているように思えます。

多様化した価値観のある現代ですが、教育勅語には人間として共通の善が定義されていると思います。

子供たちに教えるべきは、誠実さ、絆、勇気、そういった行動の伴う美徳であり、立ち位置によって変わる正義や自由、人権などではありません。

今後、教育の見直しが進む中、震災で素晴らしい道徳を見せたおらほの町でこそ、教育勅語の価値の見直しが進むと嬉しいのですが。

2012年11月1日木曜日

公益社団法人 日本青年会議所 硫黄島事業レポート

公益社団法人 日本青年会議所 国家グループ「凛然とした誇りある国家」創造会議 様

関東地区協議会 人的資源創造委員会 様

また、参加に際しご協力頂いたさまざまな皆様、貴重な機会を頂き本当にありがとうございました。

硫黄島はWikipediaにある通り、東京都に属し1200km南下した小笠原諸島南端にあります。

尖閣の一件で、地理的な要因をあげて東京都所有を現実的でないという論を唱えた方もいましたが、こういう事例もあるということです。むしろこちらは法的要因の方が強いのですが。

硫黄島といえば、「硫黄島からの手紙(Letters from Iwo-Jima)」が有名で、地上波でも放送されていることからこの映画で歴史に興味を持った方も多いと思います。

栗林中将の思いと苛烈な戦いを描く素晴らしい作品ですが、今事業ではそこで語られない重要な事実が、全体を通してありました。そこはまとめにするとして。

元タイトルでIwo-Jimaとあるとおり、「いおうじまからのてがみ」と読みます。

しかし、硫黄島の読みはいおうとう、になります。2007年に旧島民に調査をし、呼び名が混在していた状況を日本側で整理しました。私も呼び名で迷ったことが何度かありましたので、自分のためにもメモしておきます。

一日目は事前勉強会に参加し、八木秀次先生、作家の北康利先生、 衆議院議員で栗林中将のお孫さんにあたる新藤義孝先生より、ご講演頂きました。

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また、ワークショップを開催し、防衛はどうあるべきか、愛国心とは何か、国とはどうあるべきか、誰の為に戦うのか、4つの問から、あるべき日本を班ごとに模索しました。

私が特に感動したのは、一般参加のある女性の発表で「私は女だから戦えないけれど、後ろで精一杯頑張って応援する」という内容でした。

こういう風にかけば、やれ戦争美化だ、マチョイズムだと言われますが、まさに「誰の為に戦うのか?」

その問に多数を占める男性参加者が家族と応える中、女性から「私も出来るところで」という発言があったことは非常に嬉しく、だからこそ硫黄島は戦えたのだと思います。

スポーツは選手だけで戦えるものではなく、そこを支えるサポーターや家族という存在があって、たとえばメダル、たとえば記録に届くものです。

あってはならないことですが、もし、あとに引けない戦争があるのだとするのならば、何の為に戦うのか、そして、戦ってくれるのか、そこを問いなおすことが、日本の過去に求められている最も大きなミッシング・ピースだと私は思います。

二日目は硫黄島へ出発。

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自衛隊の輸送機C-130に乗って2時間40分程度の行程です。

硫黄島で使用されている滑走路は米軍が敷いたもので、ご遺骨がいくつも眠ってらっしゃいます。

その上を着陸、離陸するわけですから、自衛隊の方は常に手を合わせて慎重に操縦するそうです。

基地内、滑走路は撮影禁止でしたので、こちらのスローガンを。島がどれだけ過酷なものか、よくわかると思います。

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昼食と説明の後、慰霊祭を天山慰霊碑にて。

碑の上が抜けているのは、地下で闘いぬいた先人たちが、もっとも欲した太陽の光と水が降り注ぐようにという意匠だそうです。

IMG_0831-2012-10-31-10-17.JPGかつてのむらの跡、硫黄ヶ丘。

IMG_0835-2012-10-31-10-17.JPG偽装滑走路跡地。

IMG_0849-2012-10-31-10-17.JPG 兵団司令部壕。大本営に最後の打電をした場所です。

IMG_0865-2012-10-31-10-17.jpgIMG_0861-2012-10-31-10-17.jpgIMG_0862-2012-10-31-10-17.jpg

医務科壕。

こちらは小規模の壕で、中に入れました。飯盒の跡やヘルメットなどが生々しく残っております。

中はだんだんと熱くなり、奥はすさまじい熱気でした。火山の為、地熱が高いのです。

この熱気の中、18kmもトンネルを掘り、一月半ばも抵抗していたことに、畏怖を感じます。

右の写真は空気孔で、下は空気が流れて少しひんやりしております。聞けば、掃討戦の際、米軍はここから海水、そして油を流し入れ火をつけました。それがゆえにご遺骨の把握が難しいとのことです。また、壕内部は70度になるところもあるそうで、ご遺骨がそのままになっているのが大変偲ばれます。

IMG_0893-2012-10-31-10-17.JPGIMG_0894-2012-10-31-10-17.JPGIMG_0917-2012-10-31-10-17.JPG

そして摺鉢山の頂です。

ここで壮絶な旗の取り合いが行われました。

アメリカのピューリッツァー賞を取ったあれは二本目の旗です。一本目は建てた後、すぐに日本軍が日の丸を掲げ返しています。

また、聞いた話ですが、二本目の日の丸もあったそうで、それは白い布に血で日の丸を描いたものだそうです。やれ国旗がいかん、国歌がいかんという方もおりますが、旗というものの大事さを示すエピソードであり、今生きている感謝は彼らの旗に対する気概のおかげであると認識すれば、国旗のありがたみをもう一度考える機会になるのでは。

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この海岸線から戦いがはじまりました。

島はいまも隆起、侵食を繰り返しており、当時とは形が違っております。

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とても太陽が近い、それが上陸して一番最初に思った感想でした。ついで硫黄の匂いと、群生する緑色。

島全体を覆う緑は合歓の木で、戦闘終了後、遺体と死臭だらけの島を隠すために、米軍が上空から種子を散布したものが、今は島の大部分に繁殖しています。

たまに見かける小さな花だけが緑の中で色彩をつけます。

私は同じく激戦区だったペリリュー島の間近まで行きましたが、観光地化してしまい、当時の面影はほとんどないそうです。この島は時代の影にあり、当時の乾いた土が歴史そのままに残っています。

その乾いた土と、借り物の緑、あとは空の色だけの、とてもさびしい島だったというのが私の感想です。

なぜこの島を護らなければならなかったのか。

地政学という言葉は、哲学同様日本ではなかったことにされたジャンルですが、この島の立地は米軍の本土への爆撃コースの真下にあり、当時の航続距離、迎撃の危険性から島の攻略は必要不可欠でした。

日本側から、この島で戦った先人の思いからすれば、栗林中将の言葉通り、この島を護る一分一秒に意味がある、この言葉に凝縮されていると思います。

もはや連合艦隊も失い、補給のあてもない中で籠城にも似た戦いを行えた理由は、戦陣訓でも教育勅語でも軍国主義でもありません。日本とそこに住む、住んでいく人々に少しでも長く平和を与えたい、その願いなくしてどうして、有害生物、硫黄の悪臭と水不足、地熱と悪天候、降り注ぐ太陽さえも敵になる土地で戦い抜けるでしょうか。

私はただただ先人へ感謝するとともに、このさびしい島にいまだ残されている方をはやく本土に戻してあげたい、それが先人への礼儀であります。

そして先人への本当の慰霊として、次世代につなげていける日本の再構築を実践することが必要であるとの想いを強くしました。

硫黄島をはじめ、大東亜戦争で亡くなられた多くの方々の共通した思いがそれであります。

決して個人主義の蔓延や、道徳や誠実さの無価値化、正義の消失、歴史の喪失などを期待して戦ったわけではありません。

今を生きる我々は、過去からの遺産としてついつい金銭であったり、財産であったりと形あるものや概念に拘りがちです。しかし一方、この歴史の中に生きる先人の思いを受け継ぐことも相続であると認識し、よりよい日本、明るい豊かな世界の中の日本を目指す義務があるように思います。

最後になりますが、靖国神社遊就館で行われております大東亜戦争開戦70年展。その展示。

『君よ 桜花に一掬の涙を注げ』

放送作家の井沢満さんの祓文ですが、私が8月に展示を見た時、泣いてしまいました。

硫黄島への着陸の際もこの展示を思い出し、不覚にも涙がこぼれてしまいました。

「戦があり、いくつもの別れがありました。

 防人たちにもそれぞれの別れの言葉がありました」

この言葉からはじまる祓文ですが、自分が今、家族とともにいる幸せ、不幸だ未来が暗いと嘆くことの出来る幸せ、まだ矢弾さえ尽きておらず未来を選択できる幸せ。

この硫黄島においても、私よりも年若い先人が戦地に赴いたのかと思います。それは、これらの幸せを残すため、自分を犠牲にして我々に未来を託してくれたのです。

我々は硫黄島と共に日本を託されたと思わなければなりません。

子供たちによりよい未来を残すため、我々が、子供たちが世界をよりよく出来る機会を残すため、日本は豊かに、明るく発展していく必要があるのです。

蔓延する悪平等や、経済格差、見え隠れする貴族主義などを打破する本当の鍵は、歴史にこそあると確信します。

今事業に参加できて本当によかった。心から感謝申し上げます。